”感じたことをそのまま文章にすればいいのか。それなら自分にもできそうだ。”そう思って詩を書き始めたら、すっかり有名人になってしまい、その後正妻以外に愛人まで持ち、しかもその三角関係は、もめごともなくうまくいっていたらしい、と伝えられている詩人のサトウハチロー。
その作品をみれば、漢字をいくらおぼえてもいい文章がかけるわけじゃない、ということがよく分かります。サトウハチローが、ひらがなだけでもなかなかの詩を残していたりするからです。漢字を知らないからとか、そしておそらく国語の成績がよくないということが、作文を苦手にしているわけじゃない、ということだと思います。
まだ国語を習い始めて間もない小学生のころ、作文に対して抱いていた思いはこうでした。「自分の考えていることを人にさらけ出す作文の、一体何が面白いのか。宿題の作文ならともかく、わざわざ作文を書いてコンテストに応募する人の気が知れない」。そう思っていました。感じたことをそのまま文章にすることに対して、何の興味も関心も持っていなかった、ということだと思います。
それからだいぶたってから学校を出て就職し、外国人と日本人が入り乱れる立食のパーティに参加する機会がありました。外国人らは誰構わず話しかけ盛り上がっていましたが、私はそのパーティが退屈でした。理由は、英語で話さなければならない、という以前に、話したいことがなかったからです。これじゃあいくら外国人を目の前にしても、英会話が上達するわけがありません。
詩でも作文でも英会話でも、感じたことを誰かに伝えたいと思わなければ、面白いはずがない、ということだけは、なんとなくわかってきました。これは、伝えたいことがない人にとって、作文や英会話は苦痛以外の何物でもない、ということだと思います。
言ってみれば、売りたい品物がないのに売り子として店に立ったり、食べて欲しい料理のない店でウィトレスやウェイターとして働くようなものです。これほど面白くない時間はありません。
これはつまり、人に自慢できるようなものを持っていないと、作文もかけない、ということでしょうか?
覚せい剤中毒になり、その地獄から抜け出したいと思いながらも抜け出せず、無様(ぶざま)な生活を続けている男や女が、積極的にカメラの前に立っているドキュメンタリーを見たことがあります。出演者の一人は、覚せい剤中毒になるとこんなに惨めなんだ、ということを世の中に知らせたい、ということらしいのです。自慢できる自分だけをさらしたいわけじゃないようです。
漢字をたくさん知らなくても、人に自慢できることをやっていなくても、自己表現はできる。作文もかける。ということだと思います。こうなると、作文を苦手にする理由もなくなりそうです。
しかし、何か苦手なものを持っているほうが、人間としては魅力的だと思うので、作文を苦手にするのも一つの手かもしれません。
-2006/6/16
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