新約聖書には「狭き門より入れ、・・・。」の文章があって、救いに至る道は険しく、困難ではあるもののやはり狭き門から入るべきだ、と狭き門は肯定的に扱われています。それだからこそ、キリスト教伝道のために使われているのだろう、と思います。
競争が激しくてなかなか入学できない難関校や就職先もまた『狭き門』と称され、肯定的にとらえられてきました。最近では少しばかり事情が変わってきて、難関校に合格できても油断ができない、時代になっています。
どの学校に進学すべきかとか、どこに就職すべきか、と問われたなら、自分に合うところが一番、と答えることができます。ところがその前に自分に合うところがどこなのか見つける能力が必要になります。とりあえずはランキングの上位を目指して選択肢を広げておくことが戦略にはなるものの、最後までそれで良い、というわけにはいきません。やはり「これ(自分だけの狭き門)を見出すものは少ない」という意味で、聖書のなかの『狭き門』によく似ています。
さてもうひとつ忘れてならないのは、アンドレ・ジイド【Andre Gide】の作品、『狭き門(1909)』です。ここで言う”狭き門”とはどういう意味で使われているのでしょうか?そして、どうしてバチカンより禁書(#1)に指定(1952)されてしまったのでしょうか?
ジイドの狭き門では、青年ジェロームがアリサに思慕の念を抱きますが、アリサは妹ジュリエットがジェロームに惹かれていることを知り、妹にジェロームを譲ろうとします。姉の気持ちを察した妹ジュリエットはさっさと別の男性と結婚してしまいます。
ジュリエットの結婚によって三角関係も解消され、ハッピーエンドで終わりそうですが、ジェロームはアリサを理想化することに終始し、アリサはアリサでジェロームの抱く理想の女性に近づこうとして疲れ果て、一人旅に出て死んでしまいます。
ここでアリサはジェロームと共に天国(幸福な結婚生活)に至るにはその門は狭すぎる、と考えたようです。
狭くしたものは何だったのか、と考えてみると、無粋な話と言えば話ですが、恋愛における陶酔感はふたりがその後子をもうけ、生命を次の世代に受け継ぐためのしかけである、という考え方ができます。
恋愛相手を理想化しすぎて肉欲を遠ざけてしまえば、子は生まれず生命はその代で途絶えてしまうことになります。これは生物であるところの人間の営み、あるいは生命の流れ、に反する生き方であるとも言え、たいていの人間ならこれを息苦しいと感じるはずです。狭さとはこの”息苦しさ”のことであるに違いありません。
ジェロームやアリサのような生き方や恋愛にあこがれてもらっては困る、とローマカトリック教会の中心、バチカンは考えたのかも知れません。
しかしジイドは『狭き門』を通して、ジェロームのように理想化して恋人を困らせてはいけない、と警告しているとも言われています。バチカンはそこまで読み解けなかったということでしょうか?
-2003/5/31
#1 禁書
国家がその出版・販売・読書を禁止する書物。江戸時代幕府によって禁書となったのはキリシタン関連図書、バチカンによって禁書にされた本の著者にはジイドのほかに、フランスだけでもモンテーニュ、デカルト、スタンダール、ジャン・ジャック・ルソー、サルトルなど、著名な思想家が並んでいる。(Modern History Sourcebookより)
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