ナイチンゲール【Florence Nightingale(1820-1910)】 は今から150年ほど前の1853年に、黒海に飛び出したクリム半島で行われ、イギリスも加わったロシアとの戦争(クリミア戦争)に出掛けて負傷した兵士らを献身的に看護し、兵士らから慕われると同時に看護婦の地位向上に貢献し、はじめての看護学校の校長になるなど数多くの業績を残しています。彼女はなぜ自らの意志で危険な戦場に向かったのでしょうか?
ナイチンゲールはイギリスの上流家庭の次女として生まれました。上流家庭とはよく映画で見るようにまず生まれたときから資産があってお金持ちです。多くの農場や屋敷を持っていますが、自ら畑を耕したり、あるいは庭いじりはせず、使用人が代わってそれをやってくれます。
時間とお金が有れば世界中を旅したいと考える人が多いように、ナイチンゲール一家も召使いを連れて気に入った旅先では屋敷を借りて長期滞在することになります。ナイチンゲールはそうした旅先のイタリアのフィレンツェで生まれたことからフローレンス・ナイチンゲールと名付けられました。
大人になれば綺麗なドレスを着て社交界にデビューし夕方から夜中まで踊り続けることも出来るし、希望すれば週に何度もオペラを鑑賞することも出来ます。日曜日になると馬車に乗って教会のミサに出掛け、聖書の朗読を聞いたり、賛美歌などを歌ったりしますが、その席は特別席です。
ミサが終わると貧しい人に施しをして回ります。これは上流社会の義務なのだそうです。一家のしきたりさえ守っていれば、そうした上流社会のなかの一員としての生活が約束されています。しかし、上流であってもなくても自らの意志に反する生き方をするのは難しいのかも知れません。
ナイチンゲールは5、6歳の頃から看護の才能を発揮していたようです。しかし、上流家庭のお嬢さんが当時の地位の低い、看護婦になることはとんでもないことでした。二十歳になる前から神様に祈っているうちに人の役に立つ仕事をしたいと心に決めたナイチンゲールでも社交界の華やかな世界に興味があったこともたしかです。しかし、その生き方では自分の人生の計画を達成することが出来ないと考えたことから、同じ上流家庭からの求婚も断っています。
看護婦になろうと自分で決めても家族は許してはくれません。上流であっても職業選択の自由は無かったわけです。ナイチンゲールが反対を押し切って動き始めたのは30歳を過ぎた頃ですから、十年以上も待っていたことになります。
なぜ看護婦になりたかったのかと言えば、子供の頃の日曜日の朝の教会の帰りに見舞った病人が見せる笑顔に上流家庭で得られる幸せより強い魅力を感じたからだということになると思います。
しかし、職業選択の自由もなく、看護学校も無い時代に一体、何からはじめたら良いのかということについてはかなり悩んだようです。結局自分には何も出来ないと感じて体調を崩してゆく日々を30歳までの間に何度も経験したことを知って意外でした。これはナイチンゲールのような偉人ならずとも凡人の編者でも日頃経験することです。
自らの意志を行動に移せない悔しさを日記に書いたようです。しかし、その文章を書くという経験は後に、看護教育の基礎になった論文や手紙を書くことの助けになりました。上流家庭でのつき合いは後の司令官、陸軍大臣や首相、女王等、時の権力者に手紙を送ってその人達を動かすことを可能にしました。お金を持っていることが戦地での病院の綺麗なシーツや温かいスープを用意することを可能にしました。
これから進みたい方向を決める大事な時期が誰にでもあります。それが決まったら、後はそこに至る具体的な方法を考えることになります。与えられた家庭や地域もその手段になります。経験も必要ですが、足りなければそれからその経験を重ねることになります。
ナイチンゲールのように貧しい人達の役に立ちたいと考える理想の高い人はかなり頑固でないとつとまらないようです。頑固さはその向かう方向さえ間違っていなければかなりの力になります。この向かう方向が定まらない人が多いのでは無いかと思います。しかし、それは自分で発見するしかありません。
■参考文献
- 赤十字の母 ナイチンゲール
講談社火の鳥伝記文庫 村岡花子著
-2001/11/11
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