「人にはバカなことだと分かっていてもそれを行う権利がある」という意味になりますが、この言葉はNHKのラジオ第二の高校講座”倫理”(加藤 尚武先生)の放送をたまたま聞いて知りました。
もうこれ以上太りたくないと考える人にも食べ放題の店に入って食べる権利が認められているし、冬山に軽装で登って寒い思いをする権利も認められています。恋人を裏切って浮気することさえも認められています。
もちろん、これらの権利の行使によってもたらされる不幸は自分自身が背負うことになります。
この愚行権【the right to do what is wrong】は自由を守ろうとする人のサイトにも同趣旨の主張があります。そこ(spiked-iverties
http://www.spiked-online.com/Articles/00000002D183.htm)には愚かな選択をする権利を守れ!(Defend the right to make the wrong
choices)とあります。
この考え方には賢い人がこの権利を使えば気晴らしになり、愚かな人がこの権利を使えば身を滅ぼしてしまうという危険もあります。であるとすれば、愚行権の行使は一部の選ばれた人だけに与えられるべきだという事になるのでしょうか?
しかし、何が愚かであるかということは世間的な常識が決める事だとも言え、愚行権の行使を認めているのは”愚行”が本当に愚かな行為であると言い切れないところにあるのだろうと思います。
正しいと思われていることや世間で認められている常識が何が”愚行”であるかを決めているのであれば、その信憑性(しんぴょうせい)もちょっと怪しくなってきます。もちろん、常識は自分で考えて結論を出したくないときにはすぐに答えに導いてくれる一つの考え方であると言えます。
環境を守ることが善ならそれはすべてに優先すべきだし、健康であることが善ならそれを追い求めて健康オタクになるべきだし、清潔であることが善ならそれを追求して皆が潔癖症になるべきだということになります。
歴史の中の過ちもその当時の正しいと信じていた常識に支配された結果だと考えることも出来ます。何か別の事情で始めた場合でも、説得力のある論理が有ればそれが体勢になってそのまま進むときがあります。ヒットラーでさえ”民主的”な選挙によって選ばれ、その主張は支持を得ていました。
自由は民主主義と共にあり、愚行権はそれによって身を滅ぼす少数(?)の人達の存在を認めながらも、それ以外の多数(?)の人達の幸福のためにあるのでしょうか?そうではなく、人には不幸になる権利も幸福になる権利も与えられているとしても、その前に幸福になるための知恵を身につけたり、訓練を受ける機会は与えられる必要があると思います。
-2002/1/5
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