哀れな子犬を引き取って大事に育ててその子犬が大きくなったある日、裏の畑に爺さんを呼び、「ここ掘れワンワン」と啼きます。その呼びかけに従って掘ってみれば大判小判がザックザク。爺さんも婆さんも大喜び。それを見ていた隣の爺さんと婆さんが、犬を無理矢理引き取って、倒れたところでそこを掘れば、ガラクタは出るわ、化け物は出るわ。怒った爺さんと婆さんは犬を殺してしまいます。
日本人なら知らない人がいないこの話の、夢を壊すような話がこれから現代論になって続く不幸をお許し下さい。
もちろん、いくらペットを飼ってもそのペットは宝物が埋められた畑には連れて行ってくれません。大判小判は幸せの象徴なのだろうし、ペットを好きな人にとっては一緒に暮らすこと自体が大判小判を手に入れたかのごとくに幸せなのです。そんなペットを飼っている人達の幸せそうな姿を見て、ペットを飼えば自分も幸せになれると信じてペットショップで買って帰って育ててみれば、おしっこやウンチの匂いで部屋の中は臭くなるわ、飯は食らって金がかかるわで、怒った飼い主がペットを捨てることになります。
なんと可哀想なことかと墓を作って木を植えれば、たちまちその木は大きくなって、臼(うす)を作れと呼びかけるから、臼を作って餅をついてみれば、餅は輝きを増して小判になります。それを見ていた隣の爺さんと婆さんが臼を奪って、ろくに餅もつかずに臼の中を覗き、やがてその餅を小さくちぎって並べれば、光り出すどころか黒く変わって弾けて二人の顔に飛び散る始末。二人は怒って臼を焼いてしまいます。
爺さんと婆さんは隣の家に行って臼を焼いた後の灰をもらって帰ります。灰を撒いて飼い犬の霊を弔えば、周りの枯れ木に花が咲き、それを伝え聞いた殿様がやってきて褒美をくれるとあいなります。しかも、我こそは花さか爺さんであると隣の意地悪爺さんが殿様の前で灰を撒いてみれば、殿様の顔にかかって牢屋に入る始末。
花さか爺さんは小判が欲しくて鍬(くわ)を持って掘ったわけでもないし、臼を作って餅をついた訳でもなく、もちろん花を咲かせようとか、殿様から褒美をもらおうと思って灰を撒いたわけでもなく、きっとただ飼い犬のことが好きだったのでしょう。意地悪爺さんが化け物に合ったり、犬を殺したり、最後は牢屋に入ったのは欲張りだったからと言うより、飼い犬が嫌いだったからなのでしょう。
飼われる側の犬が劣っているわけでも、飼う側の人間が偉いわけでもなく、両方とも補い合って平等だからそれ以上を望んだ途端に不公平になって罠に落ちるのでしょうか?養ったり、食事を与える側が偉いわけでは無いことを理解できなければ、意地悪爺さんのような運命を経験することになるという気がします。
誰もが花さか爺さんと意地悪爺さんの間を行ったり来たりしているからこそ、この話は現代にも伝えられ、生き残っているのかもしれません。
-2002/2/13
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