学校で子供がいじめられていることを知った保護者らが学校に押し掛け、授業中の教室に入り、いじめた方の5人を廊下に連れ出し、平手打ちを食らわせ、さらにいじめられていた方の子供にも、どうしてやり返さないのか、と言いながら殴ったというニュースが報道されました。
保護者らの行為に内心拍手を送りたいと感じたのが正直な気持ちで、なぜそう感じたのか、そしていじめに対して、もうすこしリスクの少ない仕返しの方法はないものか、という点について考えてみたいと思います。
やられたらなぜ腹が立つのか、と言えば、もちろんそれは本能だからだろうと思います。腹を立てたり、喜んだりするのは人間なら誰もが持っている生まれつきの性質、つまり本能だとされています。
イスラエルとパレスチナの、やられたらやり返す、という怒りの連鎖がまた最近激しくなっているようですが、これだって遠い日本からみたら、愚かな行動に見えます。しかし両者にとっては、腹が減ったときの食事と同じように、当然すぎるほど当然の行為なのかも知れません。
腹が減りすぎたために毒が入っていると知りながらも食べてしまうのです。これについては、ベトナム戦争当時の妊婦の一人もそのような話をしていました。食べ物には化学兵器の粉がくっついていて、食べてみたら妙な味だったそうですが、空腹には勝てなかったそうです。
やがて生まれた子供が異常だと解ったときも、それを不思議だとは思わなかった、と話していました。
一年後のよりよい生活より、明日生き残ることを優先するのは、人間が生物である限り当然なのかも知れません。明日死んでしまえば、一年後の生活なんてあり得ないからです。
いじめだって、自分の子供がそれを苦にとんでもないことになってしまってからでは遅すぎます。どうすべきなのでしょうか?
息をするのと同じくらいに、学校に行くのが当たり前だと考えているとしたら、それは大間違いです。日本の歴史は2000年は越えると思いますが、今のように学校に通うようになったのは、ここ130年くらいだとされています。
しかも学校設立の理由が不純です。つまり、日本が植民地化されないための富国強兵、そのための産業育成、そこで働く人材育成のための教育、教育の場としての学校がつくられました。
ヨーロッパでも子供たちを教育するようになったのは、子供たちを工場で働かせていたころ、余った時間になにかしでかさないように、一カ所に集めて教えようということで習い事が始まり、それが今の学校の元になったと、聞いています。
日本で明治政府が学校を作ったときの目標は達成されました。いまは別の目標があるはずで、目標が変わったのなら学校も変わらねばなりません。そうでなければ学校の存在意義はない、と思います。
国民の8割が農家だった明治のはじめ、学校に貴重な労働者であった子供たちを奪われた当時の保護者たちが学校を焼き討ちしたという話は有名です。
家庭以外の場所で学力と集団生活を身につける必要があるのだとすれば、その家庭以外の場所を求めるときに、なにもいじめの絶えない目の前にある学校を選ぶ必要はないわけです。
これだって形を変えた仕返しだろうと思います。別の場所を探すのは結構面倒で手間がかかりますが、学校に殴り込むよりはるかにリスクも毒も少ない、と思います。
-2003/6/12
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