覚えているだけでも8人の子供を産み、夫と死別して再婚をして6人の子供が加わわると合計14人になる。今の10倍くらいの子供の母親になったその女性は自分の祖母で寺のある里に住んでいた。自宅を山に向かって歩くと左側に寺の広場と住職の住む家があり、右に行くと鎮守の森がある。右側は神社だから神様が右側で、左側には仏様がいたことになる。右側の神社は木立に囲まれて薄暗く、地面はこけが生えていて、妙に涼しかった。
夫と死別して再婚すると言うことは前妻の子供達と自分が産んだ子供達が共に暮らすことを意味する。後妻の長女だった母親はその複雑な家族構成でおきるさまざまなごたごたを教えてくれた。片方の親が違うと子供達が仲良くやっていくのも難しくなるらしい。それを知らない自分はただ、お盆が来るたびに挨拶に回る親戚の多さに、結局顔と名前が一致しないまま大人になってしまった。
高校生の頃、指を怪我して血が流れたことがあった。それを知った祖母は血相を変え、どこに行くのかと思ったら、庭に生えている薬草を採りに行った。祖母にとって自分はいくら多いと言っても孫にはちがいない。祖母にとって孫が何人いるのかなんて、多すぎるから数えたこともない。しかし、孫は可愛いのだろう。薬草を探し、慌てて動き回る祖母の必死な姿を見ているうちに、何だか母親がもう一人いるような気がして妙に嬉しくなった。
中学生の頃、母親に言われて、祖母の持つ畑に手伝いに行ったことがある。山の上にある畑で二人しかおらず、共通の話題も少なく、ただ黙々と働いた。私もしばらくの間であれば真面目に働くことが出来るから、よく働く孫だと喜んだかも知れない。畑で作っていたのはサトウキビ。サトウキビは刈り取ることには2m程の大きさになる。空の無い竹のようなものでその茎は甘く食べれば、歯磨きを兼ねたおやつになる。私は先が鉈(なた)のようになった桑のようなもので根っこから切っては一カ所に集める。
祖母はそのサトウキビについた殻を取り、先の葉を切り落とし、揃えて並べて縄で縛る。切り落とした葉は家畜のえさになり、茎は売り物となって最後は砂糖に変身して店頭に並ぶ。私は縛られて20キログラムくらいの重量になったその束を肩に担いでトラックの通る道路沿いまで運んで、積み込みやすいように綺麗に並べる。そうした作業を朝から晩まで続ける。
祖母の一番末っ子の娘が独立して家を出たとき、母親らは祖母が寂しかろうからと言う理由で、自分は泊まりに行ったことがある。お風呂は熱く、たまたま頂き物だったご飯は冷たく、味噌汁はしょっぱかった。テレビでラブシーンが放送されると、当時の私より恥ずかしそうに声を出しながらもそのドララマを見続ける祖母の姿は妙に可笑しかった。テレビを見終わるとテレビについているすべての明かりが消えるようにスイッチを切るところはしっかりしている。
私が上京してから5,6年が経った頃、母親から連絡が入った。「祖母が川のそばを歩いているときに転んでしまって脚を痛め、それ以来寝たきりになって、特別養護老人ホームにいる。ボケが進んで今は子供の顔も識別できない。もしかしたら、先が短いかも知れないから、今のうちに帰ってきた方がいい。」私はちょうど春休みだったため、帰省することにした。
ホームに着くと、知り合いの人がそこに勤めていた。親戚の人も見舞いに来ていた。私を含めて誰が誰だか分からない様子だった。脚を痛めると寝たきりになり、ボケが進むとはよく聞く話だ。これをボケ老人を作るしくみと呼ぶ人もいる。
結局私は祖母の死を電話で知ることになった。その後、帰って墓参りに行った。私のささやかな自慢は数多い祖母の孫の中で、自分こそは祖母の笑った最後の姿を写真に撮ったにちがいないということだ。残念なのは弟の自慢話を聴いたとき、弟は高校の時、母親の留守に祖母がやってきて、弁当を作ってくれたらしい。ご飯は誰が炊いても白いが、おかずがいつも焼き魚と野菜の煮付けで、あまりに伝統的で柔らかい彩りが恥ずかしく、隠すように弁当を食べたという。実に恥ずかしかったと口では言いながら、自分には自慢話に聞こえてうらやましかった。
もう亡くなってからずいぶん年月が過ぎてしまったが祖母のことは寺のある里と共に思い出すことが多い。
-2001/9/15
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