小学校に押し入って児童らを殺傷した事件で裁判中だった詫間被告に判決が出たようです。判決内容は予想通り死刑でした。ところが被告は相変わらず反省の色を見せていません。どうしてなのでしょうか?
反省するどころか、わざわざ判決の前にひとこと言わせてくれと申し出て、許しも得ずに被害者らの名前をあげて語り始めたため、予想通り退廷を命じられた、とのことです。
”この徹底した反抗ぶりは一体何なのか?”と不思議に思うほどです。腹いせのために児童らを殺傷した異常さはどう考えても正常な人間の仕業ではありません。はみ出しぶりが大きすぎて、とても健康な精神を持っている人間とは思えません。
一般的には著しく考え方や行動が偏っている場合、病気だと診断されます。おそらく病気なのでしょう。しかし、罰することができる犯罪が成立するためには加害者に責任能力がなければなりません。
病気だとなれば、おそらく判決は死刑ではなく、無罪になるはずです。そして、病院で治療の後、忘れた頃に社会に戻ってくるのです。
現実的には犯罪者に責任能力があるかどうかより、それ以外の罪を犯していない大部分の人たちが身の危険を感じずに暮らしてゆけるかどうかの方が重要視されているように思えます。きちんと税金を払い、社会を支えている人たちの方に有利なように裁判は進むものだと思います。司法制度を支えているのは税金であり、納税者だからです。
弁護士らが加害者には責任能力が無いと主張し無罪にしたい、というのなら、被告らが二度と危ないことをしないように、面倒を見られる体制を整えてからにして欲しい、と思います。それは自分たちの仕事じゃないと、ほったらかしで、裁判で勝つことばかりを考えているとしたら、そんな無責任な弁護士はいない方が世の中のためです。それは有害物質を垂れ流す業者だと知りながら、その業者に処理を依頼する企業と同じくらい、悪質です。
それにしても詫間被告は、三回受けられる裁判の一回目に当たる第一審の判決の前に、判決は死刑に決まっているから上告はしない、つまり裁判は一回で十分で、速く死刑にして欲しいと言わんばかりです。
世の中には寒い冬に住む家が無くて、わざと見つかるように泥棒をして、警察の厄介になろうと考える人がいるそうです。ホームレス暮らしより、留置場なら雨風をしのげるし、食事にもありつける、と考えるからでしょう。しかし、誰もが考えて行動しているとは限りません。
捕まれば死刑になることは分かっているのになぜ小学校に押し入ったのか?それは人騒がせで、道連れを求める自殺のようにも思えます。一人で静かに死ぬんじゃあ、死にきれない、ということだったのでしょうか?
わき上がる怒りと、その怒りにまかせて次から次に問題を起こしているのは自分の意志によるものだと、詫間被告は考えているのかも知れません。実際は暴走する自分をコントロールできないだけなのでしょうが、そんな弱っちい意志を持つ自分であるとは認めたくないのでしょう。
しかし、たいていの人間は自分の行動をなかなかコントロールできないものだと思います。もし、コントロールできていると思えるなら、それは幼く、意識もしない頃に受けたしつけや環境のたまもので、両親や地域に感謝すべきです。
気がついた頃には自分という人格ができあがっていて、その性質を自分の力で変えることはかなり困難です。それでも残りの人生を楽しむために、どこにあるのか知れない、自分の長所なるものを探し回らなければならないのです。
さんざん人に迷惑をかけ、最後は国家権力によって死刑にされてしまう詫間被告ですが、それはもう仕方がありません。そんな人をもう一度社会に出して泳がせるほど、世の中は甘くないし、前例もありません。
しかしそれでも、周囲とぶつかってばかりいる、出来損ないの、どうしようもない精神構造は、実は自分のことでありながら自分の意志によるものではないということに、はやく気がついて欲しいと思います。そうすれば、死刑は変わらずとも、反省する気になるのかも知れない、と思うからです。
ー2003/8/28
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