28日夜の拉致被害者を支援する集会で、1910年の日韓併合は朝鮮人らの同意の上で行われた、という意味の発言があったようです。当然の事ながら、北朝鮮系の朝鮮総連や韓国系の在日本大韓民国青年会中央本部から、抗議を受けています。都知事の発言は妄言なのでしょうか?
家と家との間でも隣近所とのつきあいが難しいように、国と国との間でも、国境を接する隣国同士は国境線を巡って何かと紛争の種がつきません。都知事の発言は、発言の内容の真偽を問う以前に、隣国とのもめ事をややこしくしてしまいそうで、日本にとって何か得るところがあるのか疑わしいところです。
と、ここで終わらせてしまうと、消化不良になりそうです。これを機会に、1910年当時に何が起きていたのか、なぜ日韓併合が行われたのか、考えてみたいと思います。
ちなみに、この時期の出来事について、日本が歴史をゆがめることは不可能だろう、と思います。というのは、当時は日本と朝鮮だけではなく、中国やロシア、フランスやドイツ、さらにアメリカやイギリスなどの証人がいるからです。
1910年の16年前にあたる1894年には日清戦争が起こりますが、原因は朝鮮半島の宗主権争いだったようです。当時は清が朝鮮の宗主権を主張していました。そんな時期に朝鮮半島内部の一地方で農民が反乱を起こします。この鎮圧のために、李朝政府は清に出兵を求めました。このとき、清に対抗して日本も出兵し、日清戦争が始まります。
日本はこの日清戦争に勝利するわけですが、朝鮮半島を支配下に置こうと考えていたのは日本や清だけではなく、植民地政策を進めていた列強の一つ、ロシアもそうでした。1896年に朝鮮問題について日露間で協定が調印されています。当時は、1898年にイギリスが清から九竜半島を租借したり、1900年には、義和団鎮圧のため日英米などの軍が北京入したり、1902年には日英同盟が結ばれたりしています。
1904年、南下政策を進めていたロシアと、満州と朝鮮を巡っておこした戦争が日露戦争でした。このとき日本はイギリスやアメリカの支持を得ていました。英米ともロシアの南下を望んでいなかったからだとされています。
日清戦争で日本が勝利した理由は清がかなり弱体化していたこと、さらに日露戦争に勝利した理由も、ロシアが社会主義革命を起こす直前で、体制にかなりのガタがきていたこと、さらには英米の支持を得ていたことがあったように思います。
日露戦争後のポーツマス条約で朝鮮に対する優越権を得た日本は、翌年の1905年に韓国統監府を置き、伊藤博文が統監となりますが、4年後の1909年にはその伊藤博文がハルビンで安重根(あんじゅうこん)に暗殺されます。安重根は朝鮮の独立運動家で、伊藤博文をハルビン駅で射殺し、翌年処刑されています。
日韓併合は日本と当時大韓帝国と称していた朝鮮との間で、安重根が処刑される1910年に日韓併合条約を結ぶという形で行われています。武力を使ってはいないものの、当時の大韓帝国にとっては選択の余地が無かった、と考えた方が良さそうです。
ちなみに、ロシアに革命が起こり、ソビエト連邦が成立するのは日露戦争の翌年にあたる1905年でした。日露戦争に日本が負けていたら、朝鮮半島の優越権をソ連が持つことになるわけですから、半島全体がソ連の衛星国になる可能性があったことになります。当時新興国であった日本を英米が支持した理由が分かるような気がします。
-2003/10/29
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