7月の1日に起きたとされる4歳児誘拐殺人の犯人が中学一年生だった、とする報道がされています。被害者の父親は、犯人を極刑(死刑)にして欲しい、と発言していたようですが、その犯人は12歳の少年でした。怒りの矛先(ほこさき)はどこへ向かうべきなのでしょうか?
9日には”社会全体として反省すべき”とする福田官房長官の発言もありました。ここで言う社会とは一体なんのことでしょうか?
”ヒト”は自分以外の人間とかかわることによって、社会的な存在としての”人間”に成長するとされています。つまり、別の人間と関わる場所はすべて社会ということになります。12歳の少年にとっての社会とは、おそらく家庭であり、学校であり、地域社会であり、各種メディアだろう、と思います。
地域社会はあって無いようなものだし、マスコミなどのメディアは他の少年らと共通であることから、残る家庭と学校の比重が上がります。つまり、父親の怒りの矛先の半分は少年の家庭に向かっている、とも言えますが、その家族はこの先ずっと社会的制裁を受けることになると想像されるため、これ以上責めるのも酷な話です。
もう一方の学校もあわてることになります。担任の先生、教頭先生、校長先生。その中学校の人事権を持っている教育委員会。その委員選出に関わる地方の議会。
このレベルで終わるのであれば、長崎の地域的な問題、ということになりそうですが、そういう次元の話ではないだろうと思います。となれば、
学校を指導すべき文部科学省、地方の議会に影響力がある自民党、民主党、公明党、などの政党。それらの政党に圧力を加える各種団体。そして政治家を選挙で選んだ有権者。怒りの矛先の残りの半分の一端は、自分自身に戻ってきます。
最後に12歳の少年に働いていたと考えられる心理について考えてみたい、と思います。この心理が厄介なのは、本人さえその事実に気がついていないだろう、ということです。大人であっても、理由がよくわからないまま、その場の空気に流されて思わぬ事態に陥ることがあります。
少年の犯行について、おそらく周りの大人たちが恐れているのは、少年の犯行は人間なら誰もが持っている防衛機制のひとつではないか、と疑っているためではないかと思います。
本当は別に怒りや恐怖を感じている対象があっても、さまざまな制限からその対象に直接ぶつかることができないために、代理となる別の人に怒りをぶつけたり(置き換え)、その対象のまねをすること(攻撃者との同一視)があり得るからです。
その怒りや恐怖の対象がもし自分だったらどうしようか、と周りの大人たちは恐れることになるのだろうと思います。ところが、本人にも気がつかない無意識のレベルで行われているため、仮にその対象(犯人)がいたとしても、表ざたにされることはない、と思われます。
-2003/7/9
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