ここ数年、「しんがくろんそう」という言葉を良く耳にします。ところが意味がピンと来ません。調べて見ろと、この「しんがくろんそう」は「神学論争」のことを指し、現実離れした実りのない論議、という意味で使われているようです。
しかし、「神学」ならたしか、キリスト教などの司教をめざす人が学ぶ学問だったような気がするのですが、あらためて意味を調べて見ると、宗教を信仰する立場からその宗教を研究する学問、とあります。これなら司教をめざす人が神学を学ぶのも当然です。
ところが宗教という事情から、学問といっても特別の意味がありそうです。たとえば西暦と言えば、キリスト誕生前を紀元前、誕生後を紀元後とし、世界中で使われている暦のことですが、世の中にはイエス・キリストの存在そのものを疑う人もいます。
つまり旧約聖書はユダヤ民族に伝わる神話に過ぎないし、イエス・キリスト誕生後の新約聖書も作り話で、すべてでっち上げではないかというものです。もしイエス・キリストが実際は居なかった、ということになると、キリスト教を信じる人々に限らずその影響は計り知れません。
宗教は、証拠を示すことによって論議を重ね発展する科学とは異なり、疑わしいことを多く含んでいる上に、教祖誕生についての話も何かと尾ひれがついて語り継がれるものです。しかし、疑わしいからこそ信ずる必要があり、そこにこそ信仰の意味がある、とも言われています。
つまり、「神学」は信仰をより確かなものにするために必要な学問で、そこから出てくる「神学論争」は信仰を守るための論争と言えそうです。
天動説にみられるキリスト教社会の教会側の主張は、今考えるとこっけいではあるんですが、当時の論者らの本音は、地球が動こうが天が動こうが実はどうても良いことで、信仰が揺らいで社会が混乱することの方を恐れたのだろうと思います。
1983年5月、350年も経ってから、地動説を唱えて宗教裁判で有罪となったガリレオ・ガリレオに対して、ローマ法王パウcロ2世が謝罪をしていますが、今なら、謝罪しても信仰が揺らぐことはありません。
「神学論争」に限らずあらゆる論争や主張で、論者らが何を守ろうとしているのかについて推し量りながら話を聞くと、見えてくるものがありそうな気がします。
-2004/1/31
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