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『言論の自由』と下心


 雄弁は銀で沈黙は金だといわれることがあります。もちろんそこには行動が伴うからこそ銀であり、金であるのでしょう。自由とは呪縛のようなものだと言う人もいます。それは言論の世界でも同じなのだろうと思います。

 そんなことを言っては『女としてはしたない』とか、『男としてだらしない』とか、口うるさく窘(たしな)める周囲の声は自由が無い代わりに、呪われたかように宿命的に縛られることから逃れるための教えであろうとすることも確かです。

 苦い忠告が薬として意識せずとも薬として働いていて自分を守っていることはあり得ることです。行動が伴っても伴わなくとも、沈黙を続けて無口でいることは辛いことです。人間なら誰もが訴えたいことの一つや二つは持っているはずだからです。

 沈黙を破って語り始めた場合、それが雄弁であろうとなかろうと、沈黙を守ることの金との差を埋めるためにどうしても責任が伴うのでしょうか?平和を願うと訴えても責任は伴いません。それは誰もが望むことだからです。ところがその平和を守るための手段を語らねばならない人々が政治家です。

 武器を捨てることが平和につながると主張するのなら、武器を持って攻め入る野蛮人に敢えなくやられてしまうのが自分自身ならそれが本望でも、それが身近な妻や夫や子供や親たちであったとき、それを悔いても仕方が無いのが政治家であろうし、それだけの影響力を与えられています。

 逆に、武器を持つことが平和につながると主張するのなら、それがために戦争を誘発し、結果として敵の力が自らを遙かに上回って同じく自分自身や肉親を失っても、やはり誰にも文句を言えません。

 ペンが力を持つのはそれだけ影響力が有ることを意味し、語る内容によってはどちらに振り子が振れるとも限りません。この世をめちゃくちゃにしてしまいたいという衝動さえ、自らを守るための手段だと信じて動いている人がいることを考えると、具体的な手段について語ることは人間には無理なのかも知れないとさえ思えます。

 しかし、沈黙が金なのはその価値を認める人がいるからこそ金なのであって、それが認められない世界では銀が最良の価値を持つだろうし、雄弁を目指す言論にさえ価値を認めない世界があるとすれば、そこには語ることさえ価値がないのかも知れません。

 銀よりも金よりも価値のあるプラチナに相当する何かがあるような気がします。

-2001/12/22




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