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釈迦はどんな人だったのか?


 こういうタイトルをつけると、「お釈迦様を呼び捨てにしてけしからん」という声が聞こえてきそうです。ところが社長とか会長がすでに敬称であり、社長さんとか会長さんとか呼ぶ必要がないように、釈迦は釈迦牟尼仏(シャカムニブツ)という尊称の略です。したがって、釈迦という言葉に尊敬の意が込められていることをご了解ください。釈迦がどこのどんな時代に生まれ、何を求めて説法を続けたのかについて考えてみることにしました。


<生まれたところ>


インド・ネパール 釈迦は現在のネパール領ルンビニの生まれだと伝えられています。ネパールと言えば、世界の屋根といわれるヒマラヤ山脈を連想します。ネパール王国の国土は日本の三分の一くらいですが、北はヒマラヤ山脈を挟んで中国のチベット自治区に接しているため標高は8000メートルを超えますが南はインド国境に接する平地で標高は100メートル程度にすぎません。

 ネパール南部の低地はタライ地方と呼ばれ、標高100メートルから300メートルくらいで熱帯モンスーン気候です。夏(5、6月)には摂氏40度にも達し雨も多い雨期となります。ネパールといえば遠くに雪を頂く山々が見え、涼しいところだとばかり思っていたのですが、少なくともタライ地方の夏は非常に暑いことになります。秋から春にかけては雨の降らない乾期となるため、この地域を観光するなら乾期が適しています。

 釈迦が生まれたルンビニはこのタライ地方にあるため、夏は意外に蒸し暑いところだと言うことが分かります。髪や体を洗って清めることを沐浴(もくよく)と呼びますが、これだけ暑ければ河で沐浴をすることの有り難さも伝わってくるようです。




<釈迦の生まれた時代>


 ネパールを含みインド亜大陸を中心とする地域を南アジアと呼びますが、この南アジアには紀元前2500年頃インダス文明が起こりました。しかし、それから約1000年後、砂漠化によって川が枯れ、その文明は滅びたとされています。

 インダス文明が滅びた紀元前1500年頃、遊牧民であったアーリア人たちがインド大陸の西に注ぐインダス川の上流に攻め入り征服します。さらにその200年後の紀元前1300年頃には大陸の東に注ぐガンジス川の流域にまでやってきて地域を領有し定住し、各地域に部族国家が生まれます。

 社会が発達するにつれ、カースト【caste】制度(バイナ)ができあがります。上の階級から、@バラモン(バラモン教の祭司)、Aクシャトリア(王侯・貴族)、Bバイシャ(農民・商人)、Cシュードラ(アーリア人以外の先住民)となっています。この時代はバラモン教がアーリア人の中心的な宗教でした。


<釈迦族の中心地迦毘羅(かびら)城>

 紀元前6世紀頃、現在のネパール王国南部のタライ地方にはシャカ族が部族国家を作っていたそうです。この国は強大な隣国コーサラの属国でした。釈迦族の王、浄飯王(じようぼんのう)はその隣国の親族であるクル王善覚の娘摩耶(まや)と結婚します。

釈迦の生涯

 0歳 ルンビニにて生まれる
16歳 ヤショーダラと結婚
29歳 出家
35歳 成道/サールナートにて初の説法
73歳 釈迦の理解者ビンビサーラ王息子の阿闍世に殺される
78歳 釈迦族がコーラサラ国の毘琉璃王に滅ぼされる
80歳 クシナガルにて入滅
 
 一説によると紀元前463年4月8日、出産のために実家に向かう途中のルンビニで摩耶夫人はゴータマ・シッダルダを出産します。生後7日目には母の摩耶が亡くなってしまうため、王は摩耶の妹マハープラジャーパティを後妻にします。

 釈迦は王子ですから王侯・貴族にあたり、カースト制度ではクシャトリアに属することになります。上の階級にはバラモンが存在します。また王子ですから将来は釈迦族の王様になることを期待されることになりますが、釈迦族の国は強大な二つの国に挟まれた小国で、いつ滅びるか分からない運命にありました。実際、釈迦族の国家は釈迦の存命中に滅びています。

 釈迦は16歳のときヤショーダラと結婚、やがて男子ラーフラが生まれますが、29歳の時城を出て出家します。なぜ家族を捨てて出家したのでしょうか?それは『四門出遊』としてよく説明されています。つまり城の東門で老人に会って老いの苦しみを知り、南門では病人に会って病の苦しみを知り、西門では死人を見て死の苦しみを知り、最後に北門で聖人に会って出家を決意したとというわけです。しかし、何不自由なく暮らしている人が出家を志すでしょうか?


<出家の理由>

 釈迦族の国の王子ですから将来は王様になることが期待されます。ところが強大な隣国に囲まれていつ滅びるか分からない。そうなれば王子としての自分の命も危うい、という訳で逃げ出すようにして出家したのではないかと疑うこともできます。

 また一方では父親である王は釈迦が将来偉大な王か、あるいは聖人になると預言されていたため、聖人になる、つまり出家することを恐れて城の外に出さず、城の中で何不自由なく暮らせるようにしていたものの、ついに城を抜け出し、老人、病人、死人、そして聖人に会って不自由ばかりしている人の存在に気づいて出家したと考えることもできます。

 しかし、悟りを開いた人つまり仏陀(ぶっだ)とも呼ばれる釈迦の心境を推し量ろうとすること自体が難しいのかも知れません。釈迦が自分の考えを次々に行動に移した結果が彼の生き方であったのだとすれば、その生き方を決めた理由は釈迦の教えの中にあると考えることができます。

 どん欲になればなるほど災いを招くという考え方も釈迦の教えの一つです。食欲を我慢して苦行を続けるのは悟りを開くためですが、釈迦は修行中に荒行には意味は無いと考え、山を下りて川で沐浴(もくよく)し、スジャータから乳麻の施しを受けます。共に修行を続けていた五人はこれを見て釈迦は堕落したと考えてサールナートに帰ったと伝えられています。

 荒行もダイエットもそれが進んで苦しみが達成感という”快楽”に変わってしまい、その快楽を求めてどん欲となるから、悟りを開くどころか体をこわすことになります。それだから荒行は悟りを開くためには役に立たないと考えたとも言われています。信心深さを世に示すために、自分の体に太い針を刺す人を時々テレビで見かけるときがあります。こうした行為も本来の教えからはかなりずれているように思います。

 もし釈迦が釈迦族の滅亡を予感していたのであれば、王位を継いで最後まで闘うことは釈迦族の美談にはなっても、釈迦族が生き延びることにはならないと考えたのかも知れません。


<なぜ弟子たちは釈迦に惹かれたのか?>


 釈迦は人生には意味はないと考えた人だったと聞いています。それは寂しい詰論であるに違いありません。しかし、釈迦ならずともそう感じる人は多いと思います。ただ、弟子達にはそういう寂しい思いをさせたくないと考えて説法を続けたのかも知れません。

 釈迦の時代の庶民は牧畜をしたり、農業をして日々の糧を得ていたようです。釈迦がいつものように説法を続けていると、あるおばさんから、「あなたも人に説教ばかりしていないで、自分で畑でも耕したらどうだい?」と言われたことがあるそうです。釈迦に限らずお坊さんはお布施を頂いて糧にしてました。

 そうしたら、釈迦はそのおばさんに「あなた方が畑に種を蒔いて収穫の時を迎えてその糧を頂くように、私はあなたがたの心に種を蒔いて耕し、そこで実ったものの一部をお布施としていただく」という意味のことを話したそうです。

 そのおばさんは釈迦の言葉を理解したのでしょうか?よく分かりませんが、もしイチロー選手の小さい頃に、小遣いをあげた経験のある人なら、酒を飲むたびにそのことを自慢にするかも知れません。

 もらう喜びより、あげる喜びの方が高度で、その喜びを説法という形で配って歩いて一生を終えたのが釈迦でした。最後は頂いたお布施で食中毒になって具合が悪くなりついに亡くなり、涅槃の時を迎えますが、死の間際までお布施を与えた人の功徳には変わりはないと気遣っていたそうです。

 釈迦のこうした気遣いは、無意味なはずの人生に意味があることを感じさせてくれるから弟子達は惹かれていったのかも知れません。

 -2002/5/7  


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