理想社会を目指して日々活動している人に向って、「そんな社会が実現したら退屈なんじゃないですか?」と聞いてみたところ、普段は笑顔を絶やさない穏やかなその人ににらまれてしまいました。その目は、敵をにらみつけるような目でした。
それから二十年近くが経過し、私も多少は世の中のことを勉強してきたつもりです。ところが結論はやはり同じです。こうした考え方はずいぶん悲観的でマイナス思考だと考える人もいるでしょうが、別にマイナス思考だとは思いません。自分が感じていることを正直に語ることは”真正面思考”だろうと思います。
理想社会がやってこないことを嘆くことの方が、”もしかしたら理想社会は存在し得ないのかもしれない”、となんとなく感じている自分の感覚にたいして不正直なのではないかと思います。
理想社会が”皆が幸せに暮らせる社会”であるとしたら、それは存在し得ません。一人の異性を二人の同性が好きになる三角関係はたいてい誰かが不幸になることで終わりを迎えます。理想社会にはこのように不幸をもたらす三角関係は存在しない、というのならそこは人間らしくない人々が住む社会です。
それなら理想社会が来ることを信じて活き活きと動き回っている人たちは”バカ”なのか、というとそうとも思えません。決して到達し得ない理想社会を目指すのですから、一生その活動を続けることが可能であり、充実した人生を送れるはずです。
しかし、そうした一生を送ることができるのは理想社会の到来を信じられる人々に限られます。
目の前の人参を目指して必死に走り続ける馬にとっての幸せはついにその人参を口にする日を迎えることではなく、皮肉にもそうやって走り続けられることそのものだろうと思います。しかし、そうは言っても、理想社会は存在し得ないと考えるようになってしまったら、そんな『理想社会』を求めて走り続けることはできなくなります。
となると、何を目指せばよいのでしょうか?私は人間が生き物であることを自覚し、そしてその生き物が快感を求める性質を持っているという事実に正直に向き合うべきではないかと思います。そこで、その快感を最大化する方法を考えます。
相手が誰であるかは関係なく、人は競うこと自体に快感を感じるようです。その快感を最大化しようとすれば、@腕を磨く、A公平に闘う、Bできれば勝つ、この三つが必要になります。逆にこの快感を最小化してしまうのは、@腕が上がらなかったので、Aそれを補うために不正を働いたのに、B負けてしまった場合です。
勝ってしまった場合は、自分が不正を働いたことは自分が一番良く知っているため、自らの幸福のために自分を誤魔化すという不幸な手続きが必要になります。そしてそれが続くと精神がゆがんでしまい、負けるより始末が悪くなります。
”次はやっぱり勝ちたい”と考えてしまうのが人間の正直な気持ちなら、勝負に負けてもいつかは復活ができる社会、反則をしたら天罰が下る社会、そうやって天罰が下った人にでもいつかは復活が可能になる社会、さらに競うことがしんどいと感じたら休むことができる社会、・・・。
こうやってならべてゆくと、限りなく理想社会に近づいてゆくようです。もしかしたら、どうやっても到達しないかもしれない、と思っていながら、それでもそんな社会を目指す人になってしまうことが、持続性のある”快感”を最大化する方法なのかも知れません。
-2003/2/7
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