非暴力と言えばインド独立の父、マハトマ・ガンジー(1868-1948)が有名です。なぜ非暴力でイギリスからの独立が可能だったのか、その非暴力は今でも通用するのか、について考えます。
パスカルが”人間は考える葦である”という言葉を残したことは有名ですが、人間は考えることがなければ、藁(わら)のように頼りない存在で、個々の人間はせいぜい異性や食糧を巡って小競り合いを繰り返す程度だろう、ということになります。
ところが向うべき方向について考え、さらにそれを他者に語ることでバラバラだった人々の向う方向を一カ所に集めることが可能となり、それがやがて各地の村落や共同体に見られる独特の論理をつくるのだろうと思います。
”日照りが続いて作物が育たないのは天空の神が怒っているからに違いない。その怒りを静めるためには神が喜ぶ麗しき生け贄(いけにえ)が必要だ。”という論理も成り立ちます。そこでこの機会にねたましき村一番の美女を生け贄にして合法的に葬り去ろうと考える人もいるでしょう。
この人殺しを防ごうとすれば、生け贄に導く論理(考え方)が迷信であることを証明し、村人や長老に納得してもらわねばなりません。
マハトマ・ガンジーの時代のインドはイギリスの植民地で、当時のイギリスにも植民地支配を正当化する論理があったようです。これがオリエンタリズムにみられる東洋人蔑視で、東洋人は野蛮であるため我々西洋人が植民地支配して教え導き文明化して彼らを救わねばならない、と考えることにしていたようです。
この考え方は、”愚民を教え導かねばならない”、と自分に言い聞かせて余計なことばかりやり、国民の足を引っ張るどこかの官僚の考え方に酷似しています。
人間の行為を支えている論理の矛盾を指摘するには、暴力ではなく、論理でなければなりません。論理には論理で対抗すれば、自らが野蛮では無いことを示すことになります。こうした動きをイギリス軍が武力で抑えれば、イギリスの方が野蛮であることを証明することとなり、オリエンタリズムはその根拠を失うことになります。
第一次世界大戦においてインドはイギリスに協力していますが、この後イギリスはインドの独立を認めるどころか弾圧を強めようとします。そこでガンジーはイギリスに対抗するためにハルタルと呼ばれる断食や祈りによるストライキをインド全土に呼びかけ、その試みは成功します。
ところがここで起こったのがイギリス軍による無差別の虐殺でした。このあたりからも、イギリス人がインド人を”野蛮人”と呼ぶ根拠を失っていくことが分かります。
しかし、ガンジーはどこでこの非暴力や不服従という手法を学んだのでしょうか?
ガンジーは13歳で結婚し妻との愛欲に溺れた16歳の頃、それがために親の死に目にも会えなかったとされています。思春期の夫婦生活は刺激的に過ぎたのでしょう。この体験から深き欲望がもたらず災いを思い知ったようです。
19歳になったガンジーはイギリスに留学します。そこで最初はイギリスの上流社会のまねごとをしますが、やがて聖書や仏教の本を読み、宗教は人の欲望を制限するツールである、と考えるようになったようです。
論理的思考はガンジーの生まれ育った家庭でその素地ができあがり、イギリス留学で得た弁護士資格で交渉のための論理の重要性を再確認したのではないかと考えられます。
しかし、弁護士資格を持っている人ならこの世の中にはいくらでもいるわけです。持っている知識を活かしたくなるようなショックがどうもガンジーにあったようです。
それは弁護士としての資格を買われてインドから南アフリカに渡った頃です。列車の一等車に乗ったところ、アパルトヘイト(人種隔離政策)のために列車の外に放り出されます。知識というツールを最大限に活用して戦おうと考えるようになったのはこうした体験が原因になっているようです。
植民地支配や人種隔離政策などの不公平に対抗したくなるのはよく理解できますが、なぜ非暴力という手段を用いたのでしょうか?
それは自らが欲望に溺れやすいという弱点を良く知っていたこと、さらにロンドン留学中に聖書や仏教に関する書物を読んだことが原因だろうと思います。気に入らない相手を暴力でやっつけたくなるのは、刹那的な”欲望”であるに違いありません。それは煩悩にも似て自らを不幸に追いやるものです。
さて、ガンジーが用いた非暴力は現在のイラクや北朝鮮問題については有効でしょうか?たとえば、アメリカは論理でイラクを負かすことができるでしょうか?この点についてアメリカはけっして有利ではないように思います。アメリカはイラク内の反フセイン派を裏切り続けてきたと伝えられているからです。
アメリカは論理、つまり非暴力ではイラクには勝てないことになります。日本と北朝鮮はどうでしょうか?拉致問題も核問題も論理的には日本に正当性がありそうですが、残念ながら北朝鮮では情報が遮断されています。どんなに正当性があろうとも、その論理が闇から闇に葬り去れたら、非暴力は悲劇的なくらいに無力です。
非暴力が力を持つためには、言いたいことが言える社会や、あるいは”言いたいことを言ってしまって最後は暗殺されてしまうような無茶な人”が必要になるようです。
-2003/3/4
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