仏の道を目指したわけでもなく、ただ食いつなぐため、あるいは追っ手から逃れるために坊主になったために、修行の厳しさに値を上げて逃げ出す坊主を三日坊主と呼んだそうです。そんな由来を聞いてみると、三日と持たないのももっともだろう、という気がします。
なぜなら、食いつなぐためならそれは生物としての欲求を満たしただけなので、食えるだけでもありがたいとは言いながら、もっと楽に食える方法があると知ればそこへ逃げ出す方がベターな選択だからです。
もし追っ手から逃れるために仏の道を目指す格好をしていたのなら、元々追っ手から遠ざかれば用が済むことなので、坊主からも追っ手からも遠いところがあると知れば、そこへ逃げ出すこともまた、選択肢の一つだからです。
しかも『三日坊主』だと周囲から笑われたとしても、目標に近づかないことを知りながら我慢を続けることは、釈迦の教えに反することにもなり、逃げ出すことこそが仏の道に通ずると言えなくもありません。もし釈迦がそうした三日坊主らの姿を見たのなら、「正直者よ、去るが良し。」と語ったに違いありません。
そのように邪(よこしま)で分かりやすい目的に対して、たしかに坊主になるという手段が適当ではないことは分かりやすいのですが、たとえば元日に始めた日記はどうして三日ならずとも一週間程度で終わってしまうのでしょうか?
誰かが書いた優れた日記に刺激され、そのような日記を、あるいはそれ以上の日記を書いてしまう自分の姿を想像しながらにやにやし、そのイメージをふくらませて意欲をため込み、日記を書こうと決意した場合、日記を書くことは明らかに目標に近づくことであるかのようです。
ところが、ふくらませてため込んだはずの意欲という名のエネルギーは、気に入った日記帳を選んだり、筆を選んだりしているうちに、もっと現代風に言うと、たとえばどんなパソコンが良いか、どんな日記ソフトが良いかなどと、頭をひねって金とエネルギーをつぎ込んでしまうと、日記を書く頃には空っぽになり、肝心の日記は三日と持ちません。
これはどんな坊主かというと、『三日で燃え尽き坊主』です。それでも、何日か経ってから意欲が沸いてきたのなら、躊躇(ちゅうちょ)することなくその日から再開すべきです。なぜなら、間が抜けているからもう書きたくないと考えるのは、ついつい完璧さを求めてしまう煩悩そのものだと思うからです。
-2004/1/7
●当サイトは全ページリンク・フリーです。連絡も要りません。
Copyright(C) 2000-2006 xSUNx(サン) all rights reserved.