記憶を失ったために、自分は誰なのか、と問う人がいるとすれば、その人は自分の誕生日や親や出身地や今の自分の社会的位置についての記憶を取り戻すことで納得するはずです。
刑罰を逃れるために記憶喪失を装い、自分は誰なのか、と問う人がいるとすれば、その人は自分が無罪であることを知れば納得するはずです。
人の真似ばかりして自分を偽ってもちっとも満足できないことに気づいたために、自分は誰なのか、と問う人がいるとすれば、その人は自分らしさに意味を見つけることによって納得できるはずです。
しかし、記憶を喪失したわけでもなく、犯罪を犯したわけでもなく、さらには人のまねばかりしているわけでも無いのに、自分は誰なのか、と問う人がいるとすれば、その答えは見つかるのでしょうか?
筆者はこの疑問に真正面から取り組み、何度も思考を重ねた末についに答えを得ました。それは、何とも言えない不快な「頭痛」です。つまり、このことについて考えようとすると、思考が停止したまま前に進まなくなり、まるで答えが隠された箱の上にとてつもなく重い蓋(ふた)が置かれていて、それを持ち上げようと力んでいるうちに、そこに漂う空気に含まれている毒が回って気分が悪くなる、といった感じです。
脆弱(ぜいじゃく)な人格を崩壊(ほうかい)させないために、その人格を脅かすに十分な、当人にとって都合の悪い事実は、防衛機制が働いて抑止されると説明されたりしていますが、自分は誰なのか、という問いも、そのように抑止されるべき対象なのでしょうか?
それでも、もしかしたらついにその答えを得たのでないか、と感じる人もいます。
あらゆる命は銀河の向こうでつながっている、という考えに至ったその人は、銀河に向かう物語を書いたり、別の命である動物たちと話す『セロ弾きのゴーシュ』という作品を残しています。
自分を含むあらゆる命が宇宙の向こうでつながっているのなら、たしかにそこに鉄道を走らせて向かうことも自然だし、動物たちともおなじ命として意志を伝えあうことも不思議ではありません。
自分は誰なのか、と自分に問いかけた末に得られた確信が信念となり、それが宮沢賢治に作品を書かせたのかも知れません。
-2004/1/17
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