人間が心地よさを求める性質を持った生命体であることはご存じの方も多いと思います。もちろん、その心地よさに近づくために取る手段は人によって様々です。
『格好良さ』もまた人が求めるものであるなら、我々がその対象に近づくにつれ、”心地よさ”を感じているに違いありません。”美”が絶対的な価値であり、それに近づくにつれ美的快を感じるように、『格好良さ』を絶対的価値と定めても良いのかも知れません。
しかし、悲しいかな、格好良さを求めてその姿を真似ることは必ずしも我々を幸福にはしてくれないようです。それは何を意味しているのかと言えば、言動に表れる格好良さはその人の内側からほとばしるようにわき出した結果としての形であって、その形を真似ることは、必ずしもその人に近づくことにはならないからです。
内側に隠された何かを見つけてそれに近づかねばなりません。それはやはり、幾度と無く形を真似ることによって得られるものなのでしょうか?
格好良さを構成する要素としては”潔さ”と、”洗練されているさま”があると考えられているようです。と言ってもこれだけでは何のことだか分かりません。
好きな物を食べ過ぎれば太ってしまうし、好きな人に近づくことが社会的に許されないことだってあります。願いは強くとも潔く断ち切らねばなりません。しかし、断ち切ったまま放っておけば不満がたまります。
ここで個人ができることは、その熱情をむける対象を好みに応じて選び出すことくらいです。この選択の段階では自分の好みに正直でなければなりません。そうしないと、その気になれないからです。
自分の好みに合う何かをうまく探し出せれば、次は自分の腕を磨いて洗練させるという段階に入ります。しかし、どうやって磨いたら良いのか分かりません。
そこで志を同じくする先人の知恵を借りることになります。先人が、あるいは先輩が作り出したものに触れたとき、背中に電気が走るような衝撃を感じたなら、『格好良さ』を体が受け止めて反応していると言えます。
その域に自分が到達できるかどうか、考えるよりさきにそこへ向おうとして体が反応する。そうなれば、もう動き出すしかありません。そして洗練に向うその姿からは、求めていた”格好良さ”が放たれはじめているに違いないのです。
-2003/2/2
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