もし嫌いな食べ物が好きになれば食の幅が広がる。もし嫌いな仕事が好きになれば一日の大部分の時間を楽しく過ごせる。嫌いな勉強が好きになれば申し訳ないくらいに成績が上がってしまう。もし嫌いな人を好きになればもっと楽しい時間が増える。
ところが残念なことに、好きになろうといくら努力してもその努力は実らず徒労に終わることが多い。それでも、大嫌いな人を好きになってしまうことはある。異性の場合は好きの反対は嫌いではなく、無関心だというくらいだから、好きと嫌いは近くにあって、どこかでスイッチが切り替わっているのかも知れない。
嫌いだった食べ物が好きになるのは子供から大人へとどこかでスイッチが切り替わったせいなのだろうし、進んで嫌いな仕事に就く人はいないはずなのに拘束されるという理由で仕事を好きになれないとすれば、自由を求める人間には、一生スイッチが切り替わって仕事を好きになることは無いのかも知れない。
嫌いな勉強をやろうと試みることは睡魔を引き寄せ安眠への近道であったり、机の前に座るとまず整理しようとその”まず”にすべての力が費やされ、気がついてみると、きれい好き=勉強嫌いという方程式を解いていたりする。
嫌いなことを好きになると言うことはその対象から遠ざかりたいという願望がその対象に近づきたいという願望に変わることを意味する。対象が何も変わっていないのに、願望や行動に変化が見られるのはどう考えても自分の見方が変化したとしか言いようが無い。
尊いはずの努力や我慢も自分の嫌いなものを好きなものに変えるという意味において、たいした力は持っていないように思える。頑張れば嫌いなものを好きになれると考えたこともあったが、今思えばそれはうぬぼれだったのではないかという気がする。
だから『嫌いなものは嫌い。好きなものは好き。』と考えるようにしたこともある。しかし、それでは進歩がない。
人々の行動を変えたものはその時々の発見ではなかったのかと思う。”発見”という二文字はあまりによく使われてしまうために人によっていろいろな意味を持っているように思う。ここでいう”発見”は自分を揺るがしてしまうような事件のことで、それはこれまで積み上げてきたものを崩してしまうという力を持つ一方で、こうありたいと願いながらうまくゆかずに周囲を囲んで得体が知れなかった綿のようにふわふわしたものが、崩れて形を成していなかっとものに形を与える力になるという気がする。
形ができたらそのどこかでスイッチが入り、嫌いであったものや、無関心であったものに興味を持ち始める。それは好きになることさえ意味する。好きなものへはもっと近づき、もっと知りたいと思う。知りたいと思えばそれをもっと知るために行動することになる。
これまでにない行動をすることを変化と呼び、それは自分が変わってゆくことを意味する。しかし、そのために必要な発見はどこに転がっているのか?向こうからやってくる発見ではなく、自分の意志の向かう方向に進むための発見に近づくために、もっとも人間的で誰にでも出来そうな方法の一つは立場を変えて考えることだと思う。
ところが、これが難しい。実際に脚を使って一歩前に進むことよりはるかに難しい。それは精神的に踏み入れたくないと感じる世界へ一歩でも近づきたいという意志を働かせること、つまり感情と意志がぶつかることを意味するからだと思う。
-2002/1/11
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