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背中の記憶


 帰郷して近くの町に出て道路脇で何かを待っていたある日のこと、十歳ばかり年上の女性が親しげに声をかけながら近づいてきた。こちらは、何度か会ったことがあるようなないようなそんな気がする程度の記憶しかないが、あちらはそうではないらしく、私のすぐ横に立つと道路の向こうのすっかり建物が増えてにぎやかになったあたりに目をやりながら、まるで独り言のようにしゃべり始めた。

「このあたりの土地も最初に売りに出されたときは結構安く買えたらしいのよ。一斗缶に入った黒砂糖で、家を建てるくらいの土地が買えた時代があったって。○○おじさんがそんな話をしてた。」

 無理をしてでも買っておけば良かったと、言わんばかりの口調だった。

 美形ではあるものの気の強そうなこの女性は、一体どこの誰なのだろうかと記憶をたどりつつ、少しもそんな素振りを見せずに話を聞いていたら、言いたいことを言って気が済んだのか、「じゃあね。」とどこかへ帰っていった。


 その場所よりはもっと実家に近いところでも、脇の通りの海に近い方からやってきた、やはり私より十歳ばかり年上の別の女性がまた親しげに声をかけてきた。私も笑みを返して、差し障りのない挨拶をしていたら、たまたまそこへ母親が通りかかった。さっそく家に帰ってから、その謎の女性の正体を母に訊いてみた。

 それは自分の記憶を留められる以前の話だった。

 私が生まれた後、子守をする余裕がなかった母は近所の女の子たちに片っ端から子守を頼んだそうだ。その女の子の一人がその女性だった。帯を巻いて背中に赤ん坊を背負い、子守をして終わったらいくらかの駄賃をもらう。

 そのように流れていたはずの時間の記憶は残念ながら私には少しも残っていない。それでも、それから何年たっても、その女性にとっての私はあの頃の赤ん坊のままなのだろう。


 土地の話をして帰っていった、あの女性もまた子守娘の一人だったのだろうか?赤ん坊の私を背負いながら、その当時もぶつぶつと呪文のようにしゃべっていたのだとすれば、私は気がつかないまま、何かのメッセージを無意識の世界に留めていることになる。いやそれだけではなく、もうすでに知らない間に行動に移しているのかも知れない。

-2003/10/24


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